行程:近鉄八尾駅前→叡福寺参拝→道の駅太子にて弁当昼食及び買い物
→近つ飛鳥博物館見学→近鉄八尾駅前
バス車内でDRより本日の注意事項などの説明が有りました。
車窓から眺める大和川が綺麗です。
ふれあい祭りの舞台に立ち、皆で歌った♪「ふるさとよいつまでも」♪のメロディが思い出されます。
約1時間で、叡福寺に到着。
南大門の石段を上がり境内に入ります。
<叡福寺HPより抜粋↓>
推古30年(622)旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃 膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に亡くなられた母穴穂部間人( あなほのべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれるようになりました。その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子を救世観音の生まれ変わりとする太子信仰の象徴となり、この御廟には太子を敬う空海や親鸞、叡尊、良忍、一遍、證空、日蓮など諸賢聖のほか、名僧が参籠し、日本の大乗仏教の聖地として栄えました。
天正2年(1574)、織田信長の兵火により堂塔の全てを失いましたが、慶長8年(1603)豊臣秀頼により聖霊殿が再建されたのをはじめ、江戸中期にわたって宝塔、金堂などの廟前伽藍が再興されました。
金堂(1732年に再建)
府指定文化財。
お堂に入り、叡福寺のお坊様から寺の由緒や安置されているご本尊の事などを説明をして頂きました。そのあとは各自、聖徳太子に焼香を済ませ境内の見学に向かいました。
次の予定は、「道の駅近つ飛鳥の里・太子」でのお弁当昼食と買い物。
バスへと急ぎます。
昼食は天気が良かったので、DRに手配して頂いた弁当を外で食べました。少し肌寒かったけど、話も弾みます。
道の駅には地元で採れた果物や野菜等がたくさん並んでいて、皆さんお目当ての物を探すのが楽しそうでした。
近つ飛鳥博物館に到着しました。
<近つ飛鳥博物館HPより抜粋↓>
この建物は、古墳文化の公開、展示、研究を目的としたセンターとなる博物館である。この博物館の構想はこれまでの博物館とは異なっており、単なる出土品を展示するだけの施設ではない。ここでは、新しい試みとして、環境として周辺に点在する古墳群全体をそのまま見せようとしている。
そのため建物は、そこから出土地域全体を一望できるようなひとつの丘として考えられた。
(建物の設計は、安藤忠雄氏)
「近つ飛鳥」という地名は、712年口述筆記された「古事記」に記載があります。
履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものです。「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。この「近つ飛鳥」の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道-竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっています。
また、南部の磯長谷には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地など飛鳥時代の大古墳が集まっていて、俗に王陵の谷とも呼ばれています。
なお、平安時代に編纂された「新撰姓氏録」によると、当地周辺には百済系(飛鳥戸造、上曰佐)、新羅系(竹原連)、中国系(下曰佐、田辺史、山代忌寸)の渡来系氏族が居住していたという記載もあり、「近つ飛鳥」の地域は、国際色豊な地域であったことを今に伝えています。
博物館内は、重要文化財の埴輪や修羅を始め歴史的価値のある展示品は撮影禁止になっていました。
館内の見学を終えて、バスで近鉄八尾駅へと向かいました。
(最後に)
当初予定していた「秋の収穫祭」が、この夏の猛暑によって農作物の収穫がほとんど見込めないために急遽中止となりましたが、代替案としてこの「校外学習を」DRより提案頂きましたが、個人では訪れにくい古刹に博物館と見所もたくさん有って、しかも弁当付きでのこのバスツアー。天候にも恵まれ、バス車内での会話も弾み、道の駅でお土産も買うことが出来てとても楽しい一日となりました。
お世話をして頂いたお二人のDRには本当に感謝致します。ありがとうございました。
<記事担当は、3班O・Yでした。>
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