午前の部
「安中新田旧植田邸」の見学と「丁未の乱」の古戦場を歩く
安中新田の管理を行っていた旧植田邸を見学した後、植松を通る奈良街道を歩き、勝軍寺へ行ってご本尊はじめゆかりの四天王像などを拝観させていただいた。
JR八尾駅 → 旧植田家住宅 → 渋川神社 → 大門地蔵 → 簷葡舎(えんほしゃ)跡 → 灯籠・立江地蔵 → 守屋墳(もりやふん) → 勝軍寺 → 鏑矢塚(かぶらやづか) → 竜華コミセン
安中新田の会所跡 旧植田家住宅 旧大和川は宝永元年(1704)に付け替えられ、旧河川敷を開発して多くの新田ができた。その内、47町歩の耕地を造ったのが「安中新田」である。この管理事務所にあたる「会所」で植田家は代々新田の管理にあたってきた。現在の建物のうち主屋の一部に会所当時の姿を留めているという。
渋川神社 植松にある式内社(しきないしゃ)で神域広大、老樹が多い。天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る。この地域一帯は、物部氏一族の住地で、その祖神を祀ったものであろう。
注)式内社=平安時代の法律などをまとめた「延喜式」の中の神名帳に記載されている神社のこと。
勝軍寺 椋樹山(りょうじゅさん)大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)と称し、聖徳太子が阿都に退き渋川にいた物部守屋を滅ぼすにあたって、信貴山の毘沙門に祈願し、四天王を祀って、その加護により守屋を討って戦勝を得ることができたので、ここに一寺を建て勝軍寺と称したという。(以上、八尾市観光ボランティアガイドの会の資料から抜粋)
午後の部
物部氏と蘇我氏の戦いについて、日本書紀などから考察されることを詳しく説明いただきました。時々、冗談も言われて退屈せずに楽しく聞きました。
概略:物部氏の本拠は河内で軍事を担当、蘇我氏は奈良盆地西南部で財政を担当していた。当初、両氏は提携していたが、物部氏は神を推進、蘇我氏は仏教を推進する宗教観の違いから亀裂が入って対立することになった。天皇の後継・即位争いも加わって物部氏と蘇我氏の間に戦争が起こった。最終的に蘇我氏の連合軍が物部氏軍に勝ち、物部氏が滅ぶことになったが蘇我氏連合軍は3回敗れて苦戦した。戦いは勝軍寺あたりであり、聖徳太子は四天王に祈願したことから、勝軍寺に聖徳太子と四天王が祀られている。(若井先生の説明資料から一部分を抜粋)
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